あまかのんの戯言

やりたいことなし、友達少なし、彼女はもちろんなし、そんな私が自分に自己肯定感を持つための模索の日々を綴る

今が一番楽しいはずなのに…

私の現状は内々定を頂いていて、単位こそ残っていているもののいわゆる「一番楽しい時期」。ただ私がその「一番楽しい時期」に何をしていたかといえば2か月何をするでもなく引きこもり、テストはボロボロで後期は登校しないと卒業が危うい。ようやく回復期に入ったものの特にしたいこともなく2chのまとめとスポーツニュースと他の人のブログを読み漁る日々。

こう改めて現状を記してみても将来への不安が増してくる。「一番楽しい時期」にこの生活なら、社会人になったらどうなってしまうのか。仕事もやりたい仕事に就くわけでもないし、生き甲斐もない。やがて数少ない友人とは疎遠になりその人たちのことを友人とは思えなくなり、中年になった頃には親が死んだら天涯孤独になって、誰にも発見されずに孤独死。ギャーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

……別に私がこれで良いと思えればどんな生活だろうと構わないし、不安に思いつつこうした生活を送っているということは、裏返せば私は今はこのままで良いと思っているのかもしれない。ただ、これから今までの自分がしてきた自縄自縛の不毛な経験という荷物がどんどん重くなって、この薄っぺらな充実感のない生活が押しつぶされてしまうんじゃないのか。そうしたらもう悩むことすら止めてただただ自分の心臓を動かすためだけに生きることになるんじゃないのか、と怯えている。そんなのは生きながら死んでいるのと同じだ。現に私は久しぶりに誰かに会うと、最初に言われる言葉は決まって「顔死んでるね」である。

 

「いやな気分よさようなら」の第3章、「自分の感情を理解する」まで読んだ。そこから考えるなら、私の上記のような認知自体が歪んで誤っているといえる。今までの経験からその状態が一生続くと考えてしまうのだ。たぶんその誤った認知は年月を重ねれば重ねるほど固まっていって、どうしようもなくなる。そういった意味では、私は今の認知に疑問を持ち抗おうとしているという一点においてはまだ私自身が知らない、歪みが和らいだ認知を見つけられる可能性が残されている。第3章の部分の解説を何度も読んで、今自分が細やかながらやりたいと思うことをやりたい。今日はとある宿題を済ませるのと部屋の掃除と友人への電話かな。